日本人がジャカルタに来て先ず感じる視覚的インパクトとして、日本ではあまり見かけないインドネシア人の服装のデザインや配色に目が留まるのではないでしょうか。 特にイスラム教徒の女性が着用する髪の毛を覆う布のジルバブ(Jilbab)や、手首や足首まで隠れる長めの服装の彩色とモチーフに異国を感じるでしょう。男性も無地のカッターシャツではなく、エキゾチックなシャツを着ていて、街のそこら中に柄物が氾濫しています。 彼らが多彩色な服装を平気に着られる感覚を築いた環境として、バティック(Batik)の存在があるのではないかと思います。

インドネシアを代表する伝統工芸品であるロウケツ染めのバティックが、ユネスコの世界無形遺産(人類の口承及び無形文化遺産の傑作の宣言)となったのは2009年10月2日です。 政府が毎年この日をインドネシア全土の官公庁や会社、学校でのバティックの着用を推奨する「バティックの日」(Hari Batik National)としてから、各地域やコミュニティでバティックを着て楽しむ日となりました。 また、毎年、バティックの製作技法を伝承する記念日として、バティック文化を継承するジャワの王宮やバティック産業の関係者等が、バティックで着飾った人々と盛大に祝う姿がニュース等で流れます。 「バティックの日」は実はこの一日だけではありません。 毎週、会社や学校で各々が指定した曜日が週一回の「バティックの日」として定着し、制服としてバティックを着用している生徒や、会社でも社員が思い思いのバティックを着てくる姿を見かけるでしょう。

2013年にインドネシアに進出したユニクロは、この「バティックの日」に合わせて毎年オリジナルのバティック柄のシャツやワンピース等を、インドネシア国内の35店舗と日本を含む12か国と地域で販売しています。 また、その収益は、これらの製品の製造をするインドネシアの工場で働く人への教育資金として役立てるというプロジェクトに使われています。

バティックは、インドネシア工業省(Kemenperin)により国の経済成長に貢献できる産業の一つと位置付けられています。 国民がバティックを着ることで自国の需要を生み出すことから、バティック生地や関連商品の製造産業の活性化、また輸出用工業製品としての役目を担っています。 現在の輸出比率は、日本50%、米国30%、欧州20%としていますが、隣国のマレーシアを始めとしたアセアン諸国にも輸出しています。 この過去5年を振り返ると、2015年度の輸出額1億8,504万米ドルをピークに下降傾向でしたが、現在のコロナ禍の状況下でも2020年1月-7月期は2,154万米ドルに上り、前年1月−6月期1,799万米ドルより大きく上回っていることから、2020年度の最終輸出額を4,000〜6,000万米ドルと見込んで、今後の回復が期待されています(2020年7月時点)。

そもそもバティックとは何なのでしょうか? インドネシア語大辞典(KBBI)で調べてみると、「バティック:蝋描きした布、バティック布(Kain Batik)」、となっています。 つまり、形作られた服装ではなく生地を指しています。 バティックの大きさは、横幅が約240〜260cm、縦が105cm前後とした統一規格の未縫製の一枚布です。 この規格は近年、少し小ぶりになってきていますが、現存する19世紀のバティックとほぼ同規格です。 また、前述のように、このバティックが東南アジア一帯へ輸出が叶うのは、東南アジア地域の伝統的な衣装の規格と共通していることが挙げられます。

バティックを始めとする世界の工芸品の研究の大家である吉本忍氏(国立民族博物館名誉教授)によると、バティックとは、薄手の木綿布にろうけつ染めをしたジャワ更紗を指すとし、古ジャワ語(Kawi)時代にはこの語は存在していなく、おそらく語源はジャワ語の「Bathik」で、初出は1632年頃であるとされています。 また、文献で確認できるものとして、オランダ領インド総督府管下の現ジャカルタ=バタヴィア周辺での出来事の報告書、決議録等を記したオランダ東インド会社(1602ー1799)の「バタヴィア城日記」に1641年4月8日付けの記載の中にバティックという単語が取引品目として初めて出てきます。

 

木綿布のろうけつ染めが登場するまでのインドネシアの布文化を見てみると、製糸、織物や絣、絞り、刺繍の作成技法、染色の技術は各地域に既に存在していて色々な布は作られていたようです。 17世紀初頭頃から、主にジャワ島で開花したバティック文化を形成した土台には、それ以前から、インドのグジャラート商人が運んできたインド地域の様々な染織品の影響があります。 東西交易の要となっていたマラッカで、ジャワ人やマレー人がインドネシア東部マルク諸島の丁子やナツメグ等の香辛料と染織品を交換していたことに続き、オランダ東インド会社もこの交易方法を踏襲していきます。 そして、このような長期的なインド布文化の影響は、スマトラ島から小スンダ列島までのあらゆる階級層へ広がっていきました。 当時のジャワ、バリ、スマトラの支配階級が好み、貴族、司祭らが霊的な力として神聖視してきたグジャラート産の茜と藍を基調とした絹の経緯絣(たてよこかすり)のパトラ(Patra)という布があります。 そのモチーフを模倣した安価な木版染めが徐々にインドで作られ始め、この木版染め技法も一緒に流入してきます。 バリでもパトラを模倣した織物が作られ始め、ジャワ島では、既にあった木綿布に糊で防染する技法の延長線上に誕生した蝋で防染する技法(ろうけつ染め)で、藍と茶褐色のソガに染められた柄模様の布、「バティック」が誕生したと推測されています。 17世紀末から18世紀初めに、香辛料の価格が下落しインド産染織品が高騰したため、物々交換交易が成立しなくなります。その頃には、ジャワのバティックがスマトラへ輸出されるまでに至っています。

 

前述のように、バティックとは一枚布で、出現当初は腰巻として利用されていて、シャツや上着として上半身にバティックが使用されるのは近代になってからです。 イスラム教やヨーロッパの倫理観の影響と、16世紀にインドやヨーロッパの高級なビロードや絹の上着が入ってきてから、ジャワやスマトラの支配階級は胸を隠すことが当たり前になります。 薄手のブラウスのようなものをクバヤ(Kebaya)と言いますが、ポルトガル人が持ってきたとされていて、語源はアラビア語のKabaまたはQabaです。19世紀になるとジャワの女性の間ではクバヤにバティックの腰巻を合わせた衣装が定着してきます。 女性解放運動の先駆者カルティニ(Karitini 1879-1904)の肖像画でよく見るクバヤ姿は、クバヤのカルティニ・スタイルと言われ、ガルーダ航空の客室乗務員の制服も、上衣はこのカルティニ・スタイルのクバヤに、下衣はバティック・プリントの長いタイトな腰巻型スカートを合わせています。 高級インドネシア料理のレストランでも給仕係はこのスタイルであることが多く、レストランへ行くと、この姿を見ることができ、目でも楽しむことができます。 一方、残念ながら、このインドネシアの代表的な民族衣装の形は、イスラム教の影響が濃くなってきた近年では、首や胸の谷間が見えたり体のラインを強調するスタイルとして敬遠されています。 かつては民族衣装の祭典であった結婚式のような場面でも、今はクバヤとバティックの組み合わせを見ることは稀で、イスラム・スタイルの寸胴の服装とジルバブが主流となっています。

バティックが製作される地域は大きく分けて二つの系統に分類されます。 一つは茶褐色のソガと藍で染めた中部ジャワのジョクジャカルタやソロの王宮のバティックです。 かつては王族専有の禁制模様の幾何学模様や霊鳥のガルーダのモチーフ等、ヒンドゥ教の名残りのあるモチーフが布いっぱいに余白を作らず埋め尽くすように、チャンティン(Canting)という細い管の付いた蝋置き、線描き道具で一枚ずつ描かれて製作されていましたが、1840年頃、銅板で作られた型押し道具のチャップ(Cap)で効率的に量産が可能なバティックが製作できるようになってから、一般庶民の間にもこれらの禁制モチーフが普及し始めます。 もう一つは、ジャワ島北海岸の港町でチレボン、プカロガン、インドラマユ、ラセムで作られるヒンドゥ教、イスラム教、中国、ヨーロッパ、日本など、ジャワ島に辿り着いた其々の文化、歴史の影響を受けたモチーフが多彩色で絵画的に描かれるバティックです。 20世紀に入る頃にヨーロッパからの化学染料の輸入が始まり、1927年にはオランダ政府によりバティックの保護育成と化学染料の普及を目指してバティック研究所が設立された以降、現在に至るまで、北海岸地域のバティックは、更に色彩、配色の自由度が増したバティックが製作されています。

このように、地域によりバティックのモチーフが異なるので、今までは、自分の出身地を代表する柄でアイデンティティを表現する道具の一つとして使われてきましたが、上述のようにイスラム教徒の女性の服装や男性用のシャツとして、自分の好みのスタイルとサイズに注文して、モチーフの持つ意味など関係なく、単純なる好みに合った洋服となったバティックを着る人が多くなっているのではないでしょうか。 素材は木綿だけではなく化学繊維などでも製造されており、バティック柄をモチーフとしたプリント製品も沢山出回っています。ただし、蝋を使わない方法で製造された柄のみがバティックの布は、正式にはバティックの定義から外れるそうです。

ジャカルタでは、南ジャカルタにある生地の市場、パサール マエスティック(Pasar Mayestik)に行けば、今流行りのモチーフや色のバティックから伝統的なものまで見つけることができます。 ジャカルタに住んで半年もすると、男性はバティックのシャツで出社することに抵抗を感じなくなったり、結婚式に呼ばれた際には、より華やかめの日本では選ばないだろうと思う柄のバティックを選んでみたり、徐々にインドネシアの色彩に染まっていくことを楽しく感じる人も少なくないでしょう。 当初の面食らっていたあの感覚はもう消え去っています。ジャカルタは、あらゆる地域のバティックの一大集積地で金額さえ出せば何でも揃いますが、やはり、地方へ行くと安価で個性豊かなバティックに出会えます。コロナが落ち着いたら、バティックを探しにジャワを巡る旅に出たいものです。